
025年1月26日、私は停戦後初めて自分の住む街の通りに足を踏み入れました。 喜びとショックが入り混じったような、不思議な感覚でした。かつて自分の故郷であったにもかかわらず、もはや見知らぬ土地を歩いているかのような感覚でした。私の足は、かつてのこの通りを記憶しているかのようによくわかります。そして私の思い出もこの壁の中にあります。友人とこの今の空気を感じ、瓦礫の中から私たちの奪われた過去の断片を探そうとしました。ガザの人々の喜び、その喜びの中に悲しみであふれていることも目の当たりにしました。
私たちの取り巻く厳しい現実を、恐々受け入れるかのように、慎重にゆっくりと歩きました。かつての見慣れている通り、建物は、もはやそこにはなく、すべてが破壊され、すべてが変わっていました。残骸の中から見覚えのあるものは、何かないか、また子供の頃を思い出させてくれそうな物はないかと探したのですが、何も見つからず、私には、まるで別の街にいるかのように感じました。
私は、ガザの人々の顔を良く観察するようにしました。様々な感情が入り混じった表情を読み取ることが出来ました。眼は喪失感と苦痛の涙で溢れ、唇は悲しみで一杯ながらも笑みを創ろうとしていました。私たちが耐え抜いてきた大量虐殺が終わったことへの喜びと同時に、私たちが失ったもの、亡くなった人々、そして私たちが描いていた夢などすべてが、この廃墟の下に埋もれてしまったことに大きな悲しみを感じました。私たちはこの傷をかろうじて癒そうとしているのですが、亡骸の残り香に混じった瓦礫の中を歩き、そしてこの破壊と荒廃の光景を見ると一層とこの傷口が大きくなるようです。
突然、私の足が一歩も前に進めなくなるくらいに固まってしまいました。”サバラ、どうしたの?何で立ち止まるの?“と、、、でも私は、直ぐに答えられないくらいに身動きも取れずに、ただただ驚いた方向を示すだけで精一杯でした。そして喜びもつかの間、言葉にできないくらいの悲しみに一瞬のうちに変わりました。
私の目の前には、学校の残骸がありました。この学校は他のどの学校とも違います。ハイファ・スクールと呼ばれ、かつては教育界のホープとして君臨している時期があり、歴史的な施設は今や瓦礫と化し壁は崩れ落ち、屋根は粉々に砕け散っていたのです。しかし、私が衝撃を受けたのは、こうした破壊そのものではなく、この粉々になった建物の残骸の下に避難していた家族の姿でした。子ども、女性、老人が、つまり家族全員がこの学校の残骸の中で、地面に座り、崩れ落ちた天井をシェルターにしていたのでした。テントもなく、簡単な布で身体を覆い、いつ崩れ落ちるかわからない屋根の下でこの冬の寒さから身を守ろうとしていました。
言葉に表すことが出来ないくらいの無力感、苦悩、そして彼らへの心配で胸がいっぱいになりました。どうして、彼らは、ここでこうした形で苦しまなければならないのでしょうか。何で私たちの人生はこんなにも残酷になってしまうのでしょうか。この光景を、現実を世界はどのように受け止めているのでしょうか。尊ばれる人間性はどこにあるのでしょうか。ほんの少し前まで、私は、
かすかな希望に託して自分の街の通りに喜びの片鱗を見つけようとしていたのですが、その代わりに想像以上の過酷な厳しい現実を突きつけられた思いでした。
友人の方を見ると、やはり同じ想いでこの厳しい現実に衝撃をうけたのか、目に涙を浮かべていました。 私は、自分の本当の思いを表現する言葉が見つからずに、“なんとかしたい!”と大きな声で叫びたかったです。でも私たちは、この苦しみの証人となること以外何ができるのでしょうか。
これが今の私たちの現実です。私たちは、残骸の中から希望を探し求め、廃墟の中からでもかすかな幸せを見つけようと必死です。でもいつも現実が付きまとい、戦闘は、私たちの住処だけを奪っただけではないことを思わせます。戦闘は私たちの希望と安全に暮らせる権利を奪い、私たちの人生そのものを奪っているのです。