
朝、まるで大地がうめき声をあげているかのような不気味な音で、私は目を覚ましました。重機の音が朝の静寂を打ち破り、いつものコーヒーを飲む前に目が覚めたのです。ベッドから私は起き上がり、身なりを早く整えコーヒーを淹れることにしました。というのもそれにより私の心を落ち着かせたかったのです。
何が起きたのかと思い窓を開けると、目に飛び込んできたのは、痛々しい光景でした。壊された家々の瓦礫を積んだ大きなトラックでした。沢山の思い出とそこに住んでいた人の心が入っている瓦礫です。我が家の真向かいの一角に沢山積み上げられ、静寂な中でまるで悲しみにあふれる集団墓地のようでした。
新しいトラックが到着する度に、私はトラックを見つめて自問しました。どれだけの思い出が、どれだけの笑いが、涙があったのだろうか。こうして殺された人たちは、埋葬もされず、人知れず瓦礫の中で眠っているのだろうか。私の頭の中は、崩壊した家屋で身元が分からない人たちのことで一杯になりとても混乱しました。
砂塵にまみれた光景を一時間ずっと窓際に座り眺めていました。瓦礫の臭いはミサイルの煙の痕跡を残し、周囲の空気は死と灰の臭いで一杯でした。この粉塵はただの土ではありません。荒廃と悲しみが混ざり合ったもので、それを吸い込むことは、喪失感そのものを吸い込むことと同じ気分になるのです。私たちは、こういう状況に周りを取り囲まれているのです。きれいな空気さえも遠い夢となってしまいました。
私は本当に呼吸したかったのです。こうした破壊の中でも命のいぶきを感じたいと思いました。しかし代わりに直面したことは、壊された家々の埋め立て地でした。私の窓からは、日々の悲劇、終わりのない痛みが見えるのです。さらに心を痛めるのは、この瓦礫のまわりに全てを失った家族が避難する場所を求めてテントを張っていることです。彼らは、毎日この瓦礫に苦しんでいるのです。しかし彼らは、どこに行けばよいのでしょうか。居場所がないのです。かつて住んでいたところの代わりとなる場所が、いまだに見つからないのです。
これがガザの生活の日常です。悲しみがいつも付きまとい、無力さだけが変わらぬ事実としていつも残ります。廃墟の中で呼吸し、耐え忍び、残された夢をあきらめずに生きています。
呼吸するという生きるための基本的な権利までも奪われている気がします。しかし苦悩、不正義の中でも、私たちは生き続けていますが、生きるための選択肢を持てないでいることは、全てを失っていることと同じだと思います。